2006
苦手というのは、努力をしてもなかなか改善しないから、苦手というのではないだろうか。
ある人は、自分がスピーチが苦手なのを知っていたので、たった五分のスピーチに何時間もかけて準備をした。それでも当日、うまく喋れなくて、やっぱり苦手だなあと思った。別の人は、自分が本番に強い事を知っていたので、ちょっとリサーチをしただけで、当日はその場のアドリブで滞りなく喋れた。
前者の方がずっと努力したのに、当日の出来だけを見て、前者はダメだと言われた。
ある人は、自分はどうも協調性が欠けていて、他人から悪いふうに言われやすいのを身をもって知っていたので、最大限の努力をして協調性を持つように心がけていた。それでも結局、あの人は協調性のない、失礼でムカつくヤツだと言われた。別の人は、今まで別にそんなふうに言われた事がなかったので、自然に振舞い、それで他からの批判を浴びる事はなかった。
前者の方がずっと努力しているのに、それでも後者のようにはなれなかった。
表面に出ている事が、その人の努力や生き様のすべてじゃない。人間関係でも、ある方面で頑張っていないから良い結果を出せていないように見える人を、あいつはクソだ、で終わりにするんじゃなくて、本当は人一倍頑張っているのかも知れない、それでもそれが苦手でうまくやれてないだけかも知れない、と思うことのできる勇気と優しさを、持たなきゃいけないと思う。
2006
中国関係のニュースを見ていると、こりゃ中国っていう国じゃないとできないなと思わせられる事柄にしばしば出会う。
中国では毎年どこかしらが洪水で、どこかしらが干ばつになり、いつも人民解放軍の兵士の若者たちがせっせと土のうを積んでいる図をニュースで見かける。今年は特にひどくて、50年に一度の大干ばつと猛暑らしい。四川省の重慶市はもともと暑い所で有名だが、その重慶市では40度を越す日が続き、市中を流れる嘉陵江が完全に干上がってしまったという。人や家畜の飲み水が不足し、農作物にも甚大な被害が出ている。
94年に日本であった水不足を思い出すが、ここで中国の政府が打ち出した案は節水なんてちまちました案ではなく、重慶市の農民を10万人ほど西の新疆ウイグル自治区に送り出すことだった。目的は、ウイグル自治区で綿花摘みの出稼ぎをしてもらって、地元の農作物の経済的損失をまかなうこと。それにきっと、水を飲む人口が減るというのもあるだろう。行く農民には補助金と交通費と保険が支給される。
10万人というと日本などでは一つの市ほどの人口だが、それを動かすと決めたら動かせてしまうのってすごくないだろうか。日本やアメリカではまずできないマネだ。とにかく人口が多いのと、政府が強いからできるのだろう。中国の時代劇で見るような、皇帝の一声で何十万人の人間が長城建設に動員される場面を思い出させる。確かについ95年前の1911年まで清王朝が存続していたが、いまだに皇帝と王朝政治の残り香を感じさせる国である。
2006
2006
「ストレスは人生のスパイス」なんて笑うせぇるうまんが言っていたけど、避けては通れぬとはいえ、やっぱりストレスは少ない方がいい。今回もう一つ趣味で取っているのは、Psychology 441;Abnormal Psychologyである。異常心理学、または精神病学と訳すべきだろうか。
Abnormal Psychologyのクラスでは、要は拒食症や分裂病や鬱病などのあらゆる精神病を扱っているのだが、そこから多くのものを学んだ。まず、精神病の特徴は”Out of control”、本人には症状がコントロールできない事で、そこへ「なんでお前はこんなに弱いんだ、もっとしっかりしろ」と言った所で害にしかならない。本人だってそこから脱け出したいのにできないから苦しんでいるのであって、その事への理解となると、やはりアメリカの方が「何事も根性だ」みたいな精神風土のある日本より進んでいると感じた。
精神病といっても、それは決して甘えや怠けから来るものではなく、たとえば悪くなったものを食べてお腹を壊すように、自分のキャパシティ以上のストレスによって脳がブレイクダウンし、それによって身体に症状を現れるって事なんだと学び、とても新鮮だった。それだったら、生きるのに張り切りすぎて自分でもどうしようもないうちにストレスをためて、精神病の症状を呈するまでになるよりは、無様でもいいから自分が楽なように生きるべきではないかと思った。
それに先生曰く、人生や物事に対して「こうあるべきだ、こうじゃなきゃいけない」という観念を強く持つことからして、精神的には不健康であるらしい。私はそういう観念を強く持つ傾向にあって、「なるようになるさ」なんて口では言っていても心では思えていなくて、「なんでこうならないんだ」という事にこだわりがちなので、自分の心のあり方にもっと気を付けようと思った。人生ほどほどでいいのよ、とは自身も精神病を乗り越えてきた先生の言である。
2006
Criminal Justice 427を教えるグリフィン教授は、いつもTシャツに短パンというくだけた格好の男の人だ。リノ郊外にある自宅から、毎日一時間かけて自転車でキャンパスに来ているらしい。ある日、それについてこんな事を言っていた。
「みんな、サウジアラビアの王家がテロ犯のビン・ラディンに資金を提供していたのは知ってるだろ。俺が車に乗らないのは、ガソリン代の1ドル1ドルがサウジの人殺しどもの収入になるからさ。」
地球のためではなく、そんなきわめて政治的な理由だったらしい。
2006
今趣味で取っているクラスに、Criminal Justice 427という授業がある。このクラスは「Struggle for Justice」と題されており、アメリカにおける人種問題の司法的考察といったところだ。題にひかれて取ったが、趣味で取るには難しかったような気もする。
今日はそのクラスである映画の数シーンを観た。その映画の題名は知らないが、ロサンゼルスのサウス・セントラル地区での黒人ギャングたちの抗争についてのもので、冒頭のシーンから衝撃的だった。
アジア系の夫婦の経営する店に入り、酒を買う未成年の二人の黒人青年。二人は買う前から飲み始め、注意した主人にファックを連発して悪態をつく。トラブルは起こしたくないから早く出て行ってほしい主人に対して、二人の罵詈雑言はエスカレートする。ずっと我慢していた主人は、彼らが出て行くのを見ながら、小声で文句を漏らす。それを聞きとがめた二人は、おもむろに拳銃を取り出して店の夫婦を射殺し、レジの金を奪う。
それからも彼らは数人の仲間と、気に入らない連中や他の黒人ギャングたちをマシンガンで蜂の巣にする。最後に、彼らはロスを出てジョージア州に引っ越そうと外で荷物を車に積んでいる時に、通り過ぎた乗用車から突き出した数丁のマシンガンによって、今度は自分たちが蜂の巣にされる。瀕死であえぎながら、「I've done too much to turn back, and I've done too much to go on.」という独白と共に、映画の幕が下りる。
彼らの生き方が正しかったかどうかは知らない。ロスのサウス・セントラル地区に黒人として生まれた時からそういう人生を歩む運命だったのかも知れない。しかし、これこそクソのように生きてクソのように死ぬって事だと、映画を観ている間中思った。
2006
アメリカに来るまでは家に住んでいたので、自炊歴はこっちに来てからやっと始まる。そして悪癖は、誰に習ったわけでもないのに、料理を作ると調味料を足したくてうずうずしてしまう事だ。
カレーを作らせると、カレールーだけじゃ物足りないのは当たり前で、そこにさらにしょうゆ・ソース・にんにく・インド産のカレー粉・シナモンなどが入った中国産の五香粉・イタリアンハーブの混ぜ合わせ粉・アメリカで売っているTeriyakiの粉・そして牛乳と、隠し味も何もあったもんじゃない量の調味料を入れていく。そうすると、もうほぼカレーじゃなくなっている不思議な煮込みができ、毎回それを(自分的には)おいしく頂いている。すべて目分量で入れるから、同じ味は二度と作れないのが特徴だ。
さっきもジャガイモと鶏肉のスープを作ったのだが、ちょくちょく味見をして何か物足りないなぁーとぶつぶつ言いながら、結局酒・塩・しょうゆ・インドのカレー粉再び・にんにく・月桂冠の葉・バジル・シトラスペッパーと賑やか極まるスープが出来た。自分的にはうまい。これぞ料理は足し算というのかも知れないが、なんだか足しすぎて1+1=5的な話になっている気がする。それでも、香草や調味料のたっぷり入った料理が好きみたいなので、足さずにはいられないようだ。
いつか、ものを足しすぎないちゃんとした料理を習いたいものだ。
2006
友人から夢枕獏の『陰陽師 龍笛ノ巻』を借りて読んだ。日本にいた頃は、岡野玲子さんの描く漫画版の「陰陽師」を揃えていて、久し振りに読んだ晴明と博雅の掛け合いが懐かしくて楽しかった。
安倍晴明はもちろん日本の歴史的人物だが、彼に関する創作作品はシャーロック・ホームズの流れを汲んでいると思う。「一体どういう事なのだ?おれにも説明してくれぬか」と聞く博雅に、「これは呪さ」と晴明が答える構図は、「何が起きたんだ?」とびっくりしているワトソンに、「この事件はすべてあの男が起こした事なのだよ、ワトソン君」と自信たっぷりに答えるホームズそのものである。
漫画版の陰陽師は各巻のタイトルを十二神将の名前から取っていて、ゆえに十二巻で完結するとあらかじめ決まっていた。そのせいか、終わりが近づいた十一巻は明らかに分厚くなっていて、巻数が決まっているというのも大変だなぁと思って買っていた。漫画の方が完結したと聞いたので、じゃあ最後の十二巻を買って読もっかなーとネットで調べたら、なんと十三巻まであるではないか。う、うそつきぃー!!
きっと、十二巻では終わらなかったのだろう。それまで読んでいても、本当にあと一冊で終われるのかな、これ…と心配していたから、しょうがないかも知れない。でも、あと一冊買うつもりが二冊買わないといけなくなり、相変わらず分厚いので値段も高くて、買うのを躊躇している。
買うのを躊躇しているもう一つの理由は、シリーズの前半に比べて九巻の「内裏炎上」から話がややこしくなり、よく解らなくなってしまったせいもある。それまではショートストーリー形式”晴明と博雅の平安妖怪冒険譚”だったのが、なんだか哲学書みたいになってきてしまったのだ。 それでも読みたいと思いつつ、きっと読むのは将来日本に行く機会があった時かも知れない。
2006
このシンプルな紺色の背景にしたと言ったら、友達から「似合わない…」と言われた。そうかなあと首を傾げつつ、パソコン画面を眺めている。
ところで、タイトルを決めるのに一日中頭をひねっていた。あれだけ英語の候補があったのに、結局また漢字に落ち着いてしまった次第である。
2006
最近街角でいやに堂々とひとり言を喋ってる人をよく見るなぁと思いきや、耳につけるだけのフリーハンド電話が普及しているようだ。見慣れないと、その人が電話をかけている事になかなか気付かない。まぁ、そんな新型電話の利用者たちは、周りから奇異な視線で見られる事よりも、両手を使わずに済む便利さを取ったのであろうが。
そのフリーハンド電話で話している姿が変だと思えるのは、手に持った電話機を耳に当てて喋るという、電話をするにあたってなくてはならない行為がないからだろう。今まで電話機がどんな形に進化しようと、人は何かを手に持っていたのだから、それは確かに、ベルによる電話機の発明以来の斬新なアイデアだ。
またこの事によって解るのは、人はよく形から物事を判断しているという事だ。口がもぐもぐしていたら何か食べていると解るようなものである。ロダン作の「考える人」だって、あのポーズが典型的な物事を考える時のポーズと認識されているからそう名付けられるのであって、あんな格好をしていながら「笑う人」とか名付けられても困る。いや、あの格好でも確かに笑ってられるけどさぁ…という感じである。
どうも、「書生行録」からこちらに移転しました。
これからも宜しくお願いします。
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